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詩と生活のzine『ゆめみるけんり』は2017年に創刊。各号でテーマを決め、海外詩の翻訳やオリジナル作品を編んでいます。中心には、以下の問いかけがあります。
社会の中でどうやって、文学あるいは詩を、つまりは私たちであるところの私たちを、擁護し続けていくのか?
(公式サイト マニフェストより)
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『ゆめみるけんり』vol.5:目次
カライモブックス(京都)インタヴュー「割り切れへんもんは余らしといたらいい」
◆特集:わたしから始める
小林大志「わたしたちに肉体があったころ」
遠藤のぞみ「わたしについて」
レオニート・アンドレーエフ/清野公一「ヴァーリャ」
歩祐作「エイリアンズ」
ヴェリミール・フレーブニコフ/奥村文音「子供時代のことから話すべきだろうか?……」
佐々木美佳「全ての可能性を否定するものへ」
佐取優太「青さ涯しなく」
アンドレイ・プラトーノフ/工藤順「タムボフからの手紙」
倉畑雄太「カーニバル」
砂漠で生きる「ニコール」
プロホロワ・マリア「変身する鳥/教えてよ」
髙野由美「Mother and child statue」ほか(作品に寄せて)
杉浦朋美「Repair」
李白・杜甫/秋本佑「李杜の詩をよむ」
もう一つの椅子「風景を刻む」
二宮大輔「イオと私をめぐる考察」
マリオ・アンドレア・リゴーニ/藤澤大智「草に囲まれて」
ボリス・パステルナーク/きのしたはるよ「パステルナーク詩撰」
ブルハン・ソンメズ/堀谷加佳留「イスタンブル・イスタンブル[第一部]」
ジュゼッペ・レンシ/藤澤大智「『わが痕跡』より抜粋」(エピグラムとして)
◆手紙を浮かべる/Letters afloat
ことたび(翻訳文学紀行)×ふじたみさと
◆特集2:海辺で凪を待ちながら
Kamila Lin「海辺で凪を待つ」
「いま寄り添うためのことばを」(山口勲×工藤順)
あおきりょう「緊急事態詩3篇」
佐々木樹「〈いま寄り添うための言葉の前で〉」
青柳菜摘さん(コ本や honkbooks)×山口勲さん(てわたしブックス)×工藤順「ゆめをてわたす vol.2」
◆補遺
ふじたみさと「声、ざわめき、フェルナンド・ぺソア」
カジミール・マレーヴィチ/工藤順「怠惰は人類の本性です」
「ゆめみるけんり」総目次
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〈vol.5によせて/Foreword for vol.5〉
「けれども、私が欠けたら民衆は不完全だ」(アンドレイ・プラトーノフ)
X月X日。感染者数XX人。死者XX人。
この年に私たちはみな自粛を経験することで、一度零地点に、「自分ひとりの部屋」に、戻ることになった。予定していた生の歩みが止まった。いまいち実感のない薄い死が至るところに澱み、わたくし事に大義を優先することを強いられた。それが必要であることは分かってはいるけれど、どことなく腑に落ちない感覚を誰しもが持ったのだろう。だからだろうか、説明し脅かす言葉は氾濫し、何もわからない時に、せめて何も言わないほどの倫理を持つことがないまま、無自覚に傷つけることをやめない。そうした言葉たちが私たちの感覚の上辺を撫でることもあったが、結局は一瞬で消えていった。
しかし、何かを「言うとき、命令の言葉と、契約の言葉と、説明の言葉しかないのだろうか。そんなことはないはずだ」(立岩真也)という信念を共有するとき、私たちにはもう一度始めることができる。もう一度、何ごとかを言うことができる。そんなはずはない、こんなものであるはずがない、と。遠くの他人に石を投げるよりも前に、例えば、隣で眠る人に毛布を掛けてやることが、私たちにはできる。行為で。言葉で。ただ居ることで。
そしてもう一度始めようとするならば、今・ここから始めるほかはない。つまり、わたしから始めることだ──わたしが触れ、見、聞き、嗅ぎ、味わうような距離(ディスタンス)零cmのわたしの世界、つまり身体をもう一度感じてみるところから。わたしであることは難しい。けれども、この小さな部屋にわたしが確かに在るのだと、それを確信してはじめて、そっと手紙を出すように、窓を開けるように、もう一度わたしには理解のし難いもの、つまり他者に出会いにゆけるのだろう。
他者と出会うことは、危険でないことがなかった。だから私たちは挨拶を発明し、握手を、キスを発明した。リスクを取り交わすことで、他者は他者のまま、隣り立つ人になり得てきたのではなかっただろうか。そして時に、その隣り立つ人が、窮極的には他者であることは変わらないながらなお、いや、そうであるからこそいっそう、自分が自分であるために欠かせない存在になることもあった。そして時に、私たちはそれを愛と呼ぶことがあった。
私たちはお互いに一人であり、一人であり続けながら、その一人どうしが変わり、変えてゆく──その「間」に成り立つ一人ならざるもの、一人からすこしはみ出る隙間が社会と呼ばれる。あるいは、その空隙を埋めるものを、想像力と呼ぶ。私たちはいつまでも諒解しつくしてしまうことがないし、そのことをどこかで望んでもいる。「変えられないものを受け入れ(……)受け入れられないものを変える」(宇多田ヒカル)こと、永遠のその妥協と闘いと調整、それを通してでなければ社会は成り立たないのではなかっただろうか。
変わることへの勇気と、変えることへの勇気。それが欠けた時に、私たちは他者を迎え入れることをやめる。そして他者を迎えることがないとすれば、わたしはわたしであることをやめることがない。しかしそれでは生に満足できないことを知っているからこそ、私たちは他人と出会うのだし、景色を眺めるのだし、外国語を学ぶのだし、映画を観るのだし、文学を読み書くのだし、料理を作るのだし、SNSをやるのだし、歌を聴くのだし、働くのだし、絵を描くのだし、写真を撮るのだし、酒を飲むのだし、服を着るのだし、化粧をするのだし、神を信じるのだし、詩を読むのだ。分かりみを受け取り、そして分かりみをなお超えたところにこそ、わたしに迫ってくるような生きていることの実感がある。というような実感がある。
世界は変わったし、変わりゆくが、私たちも変わってみたい。しかし変わる時の私たちは、いつだって私たちのままだったね。いつも私たちは私たちから始めたのだったし、それ以外に始めようがなかった。これからもきっとそうだ。それは変わることがない。いつもまたここから始めよう。ここ──つまり、「わたし」から。
工藤 順